自然がなくなると夢がなくなるのでは…?

そのような環境から子ども達の想像性が育つのではないでしょうか…?



 sug.さんが附属池田小学校に通っておられたころは、まだ、池田にも自然がたくさん残っていたそうです。
 その当時の附属池田小学校は、城山町にありました。校舎は現在の阪急の寮(阪急自修舎)から阪急文庫の北側のあたりにありました。授業の時には、五月山まで出かけたりすることもよくあったそうです。ふだんから自然に親しんでいたそうです。もちろん、手塚治虫さんも昆虫を採っていました。4・5年生のころに附属池田小学校が今の場所に移転した後も、校舎が高台にあったので五月山などによく登ったそうです。自然との親しみは、環境との関わりもあったのでは…とのことでした。
 小学校の3・4年生の時には、昆虫採集などの宿題があったそうです。男の子はやはり大きくてすごいものやたくさんの種類を持ってきたそうです。とてもこった標本もあったそうです。手塚さんの標本やスケッチを見ているとその詳しさに驚きますが、ほかの子ども達の作品も相当すごかったようです。女の子はアリなどの小さいものを標本にすることが多かったそうです。夏休みの宿題だけでなく、ふだんからもこのような標本はつくっていたそうです。
 そのころ、この手塚さんがいた学級では日記をつけていたそうです。また、良いものをたくさん読んだりするなどの様々な経験の中から、自分達のなごやかな雰囲気も育ってきたのでは…とのことでした。よく遊び、よく学んだそうです。


 手塚治虫さんといえば、「ベレー帽」…でも、かぶっていません。見つけられないでしょうね。(移転前の附属小学校でのクラス写真)


 手塚治虫さんは、3・4年生のころから漫画をよく描いておられたそうです。作文ももちろん、絵も上手だったそうです。作文は、空想力が感じられるものが多かったようです。また、手塚さんは、とても自分の意志がしっかりしておられたそうです。そのころには、月に1回ガリ版で漫画などを印刷していたそうです。
 手塚さんの一般の書店に出ている漫画を見ていると、その当時の学級の友達をイメージしているものがあるそうです。
 手塚さんは、なくなるまで卒業後のクラス会にほとんど毎年参加されていたそうです。あの多忙で有名な手塚さんが…。もちろん忙しい体ですから、ほんの30分だけということもあったようです。それでも驚きです。

 


 手塚治虫さんが大学生のころに描かれた「クラス会」のスケッチです。今度は、見つけられるかも知れませんね。(一般の方が見らると誤解を生じると考えられる部分は、修正させていただきました)


 ただ、不思議なことにそのような場では、漫画のことはほとんど話題にのぼらなかったようです。話のほとんどは、童心に返って小学校時代の思い出話だったようです。「あの時どぶにはまった。」とか、セミやカブトムシとりのことなどが話題のほとんどだったようです。これも不思議なことです。
 以前、宝塚の記念館に行ったことを書きました。その時に最も印象に残ったのが「いじめられっこ」だった…という、あの言葉です。本人が言っている言葉です。しかし、このずっと続いていたクラス会などから考えると、とても「いじめられっこ」だったとは思いにくいのです。ひょっとすると今の子ども達に対する手塚さんのメッセージだったのかも知れません。
 手塚さんが友人の家を訪れるのは、クラス会のときだけではありませんでした。近くで講演会などを終えられた後も、よく家までやってこられたそうです。そのような時にも、ほとんどの話題は小学校のころの話だったようです。
 sug.さんと手塚さんの関係は、手塚さんが来られるだけでなく、遊びに行かれたこともあったそうです。そのころの手塚さんの家(当時は、兵庫県猪名川町)の裏は、こんもりとした山でした。この山では、昆虫採集をしました。また、家の前は、田や畑がひろがっていました。タガメが卵を産んでいるのを見たり、ドジョウを採ったりして遊んだそうです。
 また、お母さんもたがいに仲が良く文通などもされていたそうです。
 1989年2月9日、手塚さんがなくなられた時は、漫画家の「手塚治虫」さんがなくなられたことよりも、人柄の良い人間「手塚治」さんがなくなられた、大切な友達を失ったという気持ちのほうが強かったそうです。ぎりがたく、サービス精神旺盛な手塚さんが描いたイラストなどもよく友達にあげていたようです。ですから、sug.さんの家にも、結構手塚さんの作品などもあったそうです。でも、どうもsug.さんも手塚さんゆずりなのか、人にあげてしまって、今では手元にはほとんど残っていないそうです。
 自然がなくなると夢がなくなるのでは、…いろいろな環境が大切ではないか…そのような環境から子ども達の想像性が育つのではないか…そのようなものが話の中で伝わってきました。